kujirasei’s blog

気づきベース

インドのテンプルめぐりになった


こんにちは

訪問ありがとうございます。

私は宗教を信じているわけではないのだけれど・・・

友だちが熱心なサイババの信者であり、そのご主人はシック教の信者。

彼女は自分はもちろんのこと、ご主人の信じるものを尊重している。

この寺院は金?だったかな~

ゴールデンテンプルを小縮した感じ。

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同じくサムリトサルにあるシック教の寺院

さて、人は闘/戦って生きている。

それは自分の中で分離しているからなのだけれど、

闘っているとそれが外界に投影されるので、

闘う人生になってしまう。

そこには自分を尊重することを忘れた自己が存在する。

自分を尊重出来ないのだから、外界の誰かも尊重することはない。

特に顕著に表れるのは否定的な出来事が起きたとき。

だから感謝も忘れる。

人間関係で争うことはすべて自己の分離から成り立っている。

状況や誰かを問題にする前に、自分の在り方が問われるのである。

 

インド滞在中、友達のご主人が子供の世話をしていた。

ダブルベッドの上で一歳の男の子はぴょんぴょんはねて喜んでいた。

私も私の友達は結婚式の準備に追われていた。

でも誰にでも眼を放す瞬間があったりする。

見ているはずのご主人の焦点がその子供からハズレ、

床に落下した。

その瞬間、彼女もご主人も子供に目が行く。

彼女はすぐ飛んでいき子供を抱える。

泣く子供を前に感情が爆発する母(彼女)

そして、すごい剣幕でご主人を責めたのだ。

こんな光景はめずらしくない。

どこにでも起きゆる状況だ。

子供を持っている人なら、

経験があるのではないでしょうか。

でも私はこういった。

まず初めに子どもが大丈夫だという確認。

次に、そのことを彼女が信じているサイババでも

神でもなんでもいいから感謝すること。

そしたら、ご主人を責める必要などなくなる。

責めるのは第二感情。自分以外の誰かに対して放つ感情。

では第一感情はいずこか?

第一感情は彼女自身が感じている感情。

それは何か?

その感情を無意識に抑圧したから、第二感情を勃発するかめになってしまった。

責められるほうも、責めるほうもいい気持ちはしない。

もうここで選択のミスだ。

こんなことは何度でも繰り返される。

でも、大事な息子が無事ならばそれでいいのだ。

そして、この時こそ、感謝したり、ラッキーだ!

といってこそ、

またそのような感謝できる出来事やラッキーな出来事がやってくるのである。

この習慣を変えると人はもっと生きやすくなる。

自分を責める前に大丈夫だということを信じる。

 

 

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ゴールデンテンプルを小縮した感じ

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ここから少し歩いたところにサル神・ハヌマーンが祭られている。

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「あなたは宗教か?」と聞いてくる人がいる。

つまり、「あなたは宗教を信じているのか?」という質問なのだと思う。

こういう方に限って宗教に巻き込まれる怖さを前提意識に話をする。

けど、それは過剰ポテンシャルともいえる。つまり執着だ。こだわりだ。

怖ければ、考えないことが最善なのだ。

 

創造は栄光なり!

ハレルヤ!

 

 

 

 

 

 

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